私、社交的な人だと思われがちなんです。
見た目が派手なのと、たぶん話しかけやすい雰囲気なんでしょうね。
でも実際は、学校行事では存在を消したいタイプです。
……と言いつつ、去年は職業訓練校でクラスのLINEグループを作って、飲み会まで開いていました。
自分でも、ややこしいなと思います。
今日は、そのややこしさの話を書きます。
去年、「このクラスのお母さん」と呼ばれた

去年、職業訓練校に通っていました。
職業訓練校って、独特のドライ感があるじゃないですか。
そこで私は、クラスのLINEグループを作って、飲み会を開きました。
先生には「このクラスは特別仲がいい」と言われて、私は「このクラスのお母さん」と言っていただきました。
自然にそうなったわけじゃなくて、意図的にやっていました。
娘が保育園の頃も、同級生のファミリーと旅行を計画したり(一棟貸しの別荘を借りたり、沖縄まで行ったり)、飲み会をしょっちゅうやったりしていました。
……こう書くと、ただの社交的な人ですよね。
でも、ここからが本題です。
できるは、楽という意味じゃない

じゃあ楽しくラクにやっていたのかというと、めちゃくちゃ消耗していました。
最初は、すごく気を遣うんですよ。
- グループLINEのルールを作る。
- 人の投稿には、必ずリアクションする。
- みんながリアクションしやすい話題を振る。
- 自分から自己開示する。
これを、毎回やるんです。
「このクラスは特別仲がいい」の裏側は、こういう地味な作業の積み重ねでした。
できるって、楽にやれるという意味じゃないんですよね。できるけど、ちゃんと疲れる。
救いだったのは、訓練が終わる頃には、もう安心できる関係になっていたこと。
そこからは気を張らずに、いつもどおりLINEしていました。
今も、たまに飲み会をやっています。
人間関係をなりゆきに任せず、自分で作ってきた話は、こちらにも書いています。
昔は「なんでだろう」と思いながら、社交性を出していた

この「できるけど疲れる」の理由を、私は長いあいだ知りませんでした。
社交的なはずなのに、飲み会のあと、どっと疲れる。
エレベーターや近所で顔見知りに会うのが、異常に嫌。
なんでだろう? とは思っていたんです。
でも、そこまで深く考えてはいませんでした。適応できちゃうから。
だから、なんでだろうと思いつつ、社交性を出していました。
できてしまうと、周りからは「社交的な人」に見えます。自分でも、疲れるのは気のせいかな、で済ませてしまう。
理由がわからないまま、できることをやり続けていたんです。
社交的なことと、外向型は別だった

その「なんでだろう」がほどけたのは、自分が内向型で、HSS型HSPだと気づいたときでした。
きっかけは、正直よく覚えていません。いろいろ調べていたら、出てきた。
そのなかで、「社交的であること」と「外向型であること」の違いも調べました。
私が調べてわかったのは、人とうまく関われるかどうかと、人と関わったあとに元気になるか疲れるかは、別の話だということです。
人とうまくやれる。でも、関わったあとは疲れる。
それって、矛盾じゃなかったんですよね。
私は社交的に振る舞える、内向型だったんです。
内向型でHSS型HSP、という私が実際どう暮らしているかは、こちらに書いています。
数年に一度、心のドアが開く

そもそも私は、人と関わること自体を、そこまで求めていません。
それなのに、なんで職業訓練校であんなに頑張ったのか。
数年に一度、私の心のドアが開くんです。
HSSだから、定期的に刺激がほしくなる。
でも内向型でもあるから、基本的には内に向いている。
矛盾してますよね。でも、どっちも私なんです。
ここは、もう割り切っています。
理解してもらいにくいのもわかっているし、困ってもいない。
ただ、客観的に見たら、付き合いづらいだろうなとは思います。
めんどくさい人間だなぁ、と。
開くのは、刺激と飲み仲間がほしくなったとき
職業訓練校でドアが開いた理由は、立派なものじゃありません。
刺激がほしかった。
あと、飲み仲間がほしかった。
その前に開いたのは、2〜3年前で、住んでいるマンションの交流会を企画しました。
あのときは、たぶん飽きてたんだと思います。既存の人間関係に。
終わったら、自分で閉める
マンションの交流会のあと、ドアは閉めました。
何かあったわけじゃありません。交流会が終わったから、閉めただけ。
じゃあ閉まっているあいだは我慢しているのかというと、ぜんぜん違って。
既存の、安心できる人間関係だけで幸せなんです。満足している。
数年に一度しか開かないのは、ふだんが足りているからなんですよね。
嫌なのは、勝手に開けられそうになること

ここまで書いて、わかったことがあります。
私は、人と関わるのが嫌なんじゃない。
自分で開けていないドアを、外から勝手に開けられそうになるのが嫌なんです。
見た目で「社交的そう」と寄ってこられる
私は好きな髪型をして、好きな服を着ています。
それが派手に見えるらしくて、勝手に「明るくて社交的な人」だと思われて、人が寄ってくる。
これが、すごく嫌で。
好きな格好をしているのは、話しかけてほしいからじゃないんですよ。
目立ちたいわけでもない。
ドアは閉まったままなのに、開いていると思って入ってこようとされる。そのズレがしんどいんです。
好きなものとの距離感については、推し活の記事にも書いています。
娘の学校では、存在を消したい
いちばんわかりやすいのが、娘の学校です。
「このクラスのお母さん」と呼ばれた人間と、保育園時代にファミリー旅行を企画していた人間が、学校行事では存在を消したいと思っています。
全部、同一人物です。
学校は、人の種類がとにかく多いじゃないですか。いろんな人がいる。
それに、子どもの場所だから、私は「母親」としてそこにいないといけない。これが窮屈なんです。
知らない保護者の方に、突然「〇〇ちゃんママ」と親しげに話しかけられたことがあります。
まず名乗ってほしいな、と思ってしまう。
話しかけられること自体が嫌なわけじゃないんです。
保育園のときは自分で開けた。職業訓練校でも自分で開けた。学校では、開けていない。
私にとっての違いは、それだけです。
人との距離をどう決めているかは、こちらの記事でも書いています。
まとめ:できることと、したいことは、別でいい
ドアが開いているときの私は、たぶん社交的に見えます。
でも、閉まっているときの私も、同じくらい「私」です。
むしろ、ほとんどの時間を、私は閉まったまま過ごしている。
でもそれで、ちゃんと満ち足りている。
もし、人とうまくやれるのに、どっと疲れる自分を責めている人がいたら。
それは、ドアが閉まっている時間なのかもしれません。
閉まっている時間は、欠けている時間じゃない。
無理に開けなくていいし、開けたくなったら、そのとき自分で開ければいい。
私のドアは、私が開けます。



